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徳川家康


・人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。
・不自由を常と思えば不足なし。心に望み起らば困窮したる時を思い出すべし。
・堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。
・勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に至る。
・己を責めて人を責むるな。
・『及ばざるは過ぎたるに勝りし


こちらは江戸幕府を開き、その初代将軍となった徳川家康の遺訓です。
非常に有名な遺訓となっており、皆さんもご存知の方が多いかと思います。

さて、当時の政権を握っていた徳川幕府を滅ぼし、
王政復古のクーデターを起こした大久保利通。
そんな"幕府の破壊者"とも言える彼は、
徳川家初代将軍であったこの徳川家康を「神君」と称し、
一種崇拝するほどに尊敬の念を抱いていました。


その大久保の尊敬の念は、彼の言葉、
そして政治にも忠実に反映されています。

変動期の政治というのはやり足りなくとも良い、
           やり過ぎることは全てを失うことだ。


と述べており、彼の繊細かつ断行の推し進めていった、
彼独自の政治に表現されていると思います。
また遺訓の一部である「怒りは敵と思え」。
”感情を出した方の負け”という考えの大久保も同様の考えを持っています。


ただ一つ家康と利通では、”権力に対する執着心”に相違点があると感じます。

どちらも幕府・政府においての最高責任者でありました。
大久保に関してはその政策の断行、そして同郷・西郷が死しても尚、
政府の頂点から降りぬ事から当時『権力の執着者』と呼ばれ続け、
現在でもそう知られていることが多いと思います。

しかし彼は、権力に対する執着は”希薄”でありました。
それは彼が岩倉使節団として渡欧している際、日記として記録されています。


帰国すれば引退したい。
”到底自分のような古人には新文明を担い、発展させていくことは不可能である。
 こういった事は固定的観念や概念の少ない新世代が進めていくべきだ。”

使節団として派遣され、欧米列強各国の進んだ国家制度、
政治形態を間近で体験した大久保の強い意思、つまり政治的信念からの言葉です。

この”引退”に関しては岩倉具視が懸命の説得を行い、
相当意思を固めていた大久保もこれには”仕方あるまい”と首を縦に振ります。
あくまでも彼の権力に対する意識は希薄であったのです。
しかしながら『内務卿』・『国の最高高官』これらの地位は国造りを進める上では、
最低限必要な役職でした。・・・大久保が持っていたと言えるであろう
固執は恐らくこの部分であり、「国造り」に対する執拗なまでの思い入れについては

一種の”執着心”

と言っても過言ではないかもしれません。

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大久保はその時代特有の、或いは現代社会にも通用するであろう
武士の『忠誠心』を持ち合わせていました。
彼の尽くすべき忠義の相手は、あくまでも藩主ではありません。
無論天皇でもなく、その相手は「民」でした。
言ってしまえば、大久保は、その為の手段を選ぶようなことはしなかったのです。
恐らくではありますが、これが彼が『冷徹の政治家』・・・などと
評される事へと結ばれていったのだと思います。

当時の日本の神は天皇でありました。
彼ら(明治人)の天皇敬愛、天皇に対する忠誠心は、
後の日露戦争において203高地を指揮した乃木希典からも見て取れます。
"神"という概念では偶像崇拝にしか成り得かねませんが、
目に見える形での神はあくまで、陛下より何より当時の民だったのでしょう。

大久保はそういった、目に見える形での神を信じ、
それに対して途轍もないほどの忠誠心を持っていました。
単純に好きか、嫌いか、ではそちらを強く好んでいたのです。


あくまでも現実主義者であり、それ以上に・・・と言えてしまう程の
彼のリアリストぶりは内務卿就任後間もなく発揮されています。

『水を打ったように静まり返る』・『紙を捲る音すら遠慮してしまう』

言わば”異様”とも言える管内は徹底した現実主義者であった
大久保独自のものであり、あくまでもそれのみを見つめ続けた、
彼の政治論が凝縮されているのかもしれません。

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