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大隈重信

大隈重信(1838.3/11~1922.1/10)佐賀藩出身であり、大蔵卿・外務大臣・農商務大臣
更に内閣総理大臣及び内務大臣等を歴任し、早稲田大学の創始者でもある。

上記の通り、大隈重信は“内閣総理大臣”であり、“早稲田大学”の創始者でもあります。
同時に彼は、維新期において大久保や木戸と共に殖産興業・地租改正を遂げ、
維新三傑死去後は明治十四年の政変を経てその遺志を引き継ぎました。

倒幕~維新までの間、彼は維新の三傑と深い繋がりを持ち、
何より、大久保と政務担当上強い関係を持っていました。
近代国家の基礎とも言える「幕末-明治時代」を
生き貫いた彼が見た、大久保をご紹介したいと思います。


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大隈は、

教育らしい教育は受けた人ではなかったろうが、
       あれだけの人物になる実質的教育を受けたことが首肯かれる。


当時、佐賀藩は全藩の中でも非常に教育に特化しており、
新政府役人の大半を占めていた『薩長土肥』の内、
教育という面においては幕末以前から群を抜いていた、
と言っても過言ではない、教育レベルの高さでした。
この肥前における教育の成果は有名なものですと、
鉄製大砲/アームストロング砲弾等において、証明されています。
大隈自身は幼少期から藩校である弘道館に入門を果たすものの、
(佐賀藩教育の特徴)儒教を中心とした教育方針に反感を覚え、藩校の改革を訴えます。
多くの同志から国学・蘭学・オランダ憲法を学び取り、後に早稲田大学を創立。
...そんな教育者でもある大隈の目線から見た、
大久保が受けた教育に対する、率直な思いであったのだと強く感じます。

また当時は各藩毎に藩校の教育方針が異なっており、
具体的に佐賀藩では、先述のように儒教中心の方針ではありましたが、
その中にオランダ式医学を積極的に学ばせ、医師に認定される為の試験を
日本で初めて制定、及び施行した藩として、近代国家への道を大きくリードしていました。
一方、薩摩藩では同時期に地域毎に「方限(ほうぎり)」によって区分され、
郷中教育が為されており、大久保/西郷が居住していた鍛冶屋町には、
彼らの他、村田新八・大山巌・東郷平八郎等、名を挙げた人物らが軒を連ねていました。

地域図

図中、右端が大久保家、その隣が村田(新八)家、
甲突皮の真下が西郷家、少し離れた地域の中心に位置するのが、
大山(巌)家となっており、郷中教育はこの四人を含めたメンバーで
鍛冶屋町における「方限」を組み、郷中教育を行っていたのです。

このような各藩における、そして環境の違いの観点から、
大隈は大久保へ、この言葉を捧げたのです。


大隈が指す「実質的教育」とは、大久保の生涯の出来事の中で、
一体どの部分を指しているのでしょうか。
先述の言葉に続いて、大隈はこう語っています。

大久保がどうしてあんな偉人になったかは、面白い研究課題である。
          恐らく大久保も例の鹿児島流の兵児教育で育ったのだろう。
                     しかし、それよりは第一に時代が彼を教えている。


この、---
『時代』についてを、彼はこう続けています。

(高崎崩れ)この騒動は彼に正義のなにものたるかを深く知らしめたに違いない。

高崎崩れとは、当時の薩摩藩主であった島津斉興の妾であった
”お由良の方”が斉興の子(=薩摩藩11代藩主・島津久光)を身篭り、
本来嫡男であった斉興の長男である島津斉彬が継承する事を好まずに
斉彬を廃するよう計画した、所謂「お家騒動」を指します。
大久保の父・利世もこれに直接関与(お由良・久光暗殺計画の一員)し、
幸い計画倒れに終わったものの、事件発覚後、喜界島へ遠島の刑に処されます。
大久保自身も現職であった記録所書役助という役職を免職されますが、
この”時代”が、彼の政治家としての、一種の冷徹さや冷静さ、そして何事にも動じず、
虎視眈々と国と向き合っていく基礎の部分が完成された、と言っても過言ではありません。

この一連の出来事を十代後半~二十代前半までに耳にした大隈は、
彼も心中において幼き斉彬党、すなわち正義党であったに違いない。
と述べていることから、大隈自身もこの一件については斉彬派、
すなわち、大久保(家)と同意見であったことが推察出来ます。
...お由良騒動が勃発した1850年の翌年である1851年から以後四年間、
自らの地位共に一命を取り留めた斉彬は「名君」として名を挙げます。
その後薩摩藩の実権はこの島津久光によって握られることとなり、
名実ともに第二十九代薩摩藩当主へと昇進しました。

お由良騒動以来、大久保の父である利世が計画に加担し、
只でさえ複雑な関係が続く中で、西郷(隆盛)と久光との間柄は非常に険悪なものでした。

事実上の実権を久光が握るようになった当時、同時に日本という国の大きな改変期でもあり、
各藩毎の思想や行動が神経質かつ慎重になっている時期でもありました。
そんな中で1862年(文久二年)に寺田屋事件勃発の前後に「久光の上京」、
についての討議が起こり、久光に従って上京した大久保に対して、西郷は無断で先発。
これに激怒した久光は西郷を大久保の父・利世と同様の刑であった、
「遠島」の刑に処し、徳之島への島流しが確定されました。
自身の最も信頼できる、そして最も頼れる仲間であった西郷が遠島の身となった今、
多くの仇浪に翻弄されながらも、大久保は精忠組、藩のトップとして奔走し続けます。

大久保にとって第二の時代であるとも言えるこの時期に関しても、
大隈は次のように述べているのです。

斉彬公の没するとともに、後には深くなったろうが、その当初はあまり深く信任のなかった
 三郎公、すなわち久光じゃ、この人を戴いて仕事をしなければならぬ。
 下には空威張りに威張る二才衆がある。精忠組がある。
 これらを圧えて上下の調和を計らねばならぬ。
 久光の世となるとともに、西郷はあまり容れられなくなった。
 この西郷と久光の関係のためには、実に苦しんだらしい。
 久光と西郷の関係は、したがって久光と大久保自身との関係のようなものじゃが、
 この関係が藩政の時代はまだよかったろうけれども、維新の時、
 及びそれ以後になると大問題になった。
 (中略)
 なにしろ大久保の心を痛めた問題の最も大いなるものの一つじゃ。
 これは文久元年から明治六、七年まで続いている。


大隈もまた、明治維新の立役者として、そして志士時代を生きた者として、
藩内での苦労や葛藤が痛切に感じ取れたのだと感じます。


そして二度の遠島から帰還した西郷、何としても西郷を救うべくして
藩政に奔走し続けた大久保らが起こした王政復古の大号令~明治維新。
旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争も漸く終え、新たな国の第一歩として
日本国を創設していかなければならない大久保、そして、
大隈自身にも強く記憶に残されているであろう”征韓論(征韓の議)”。
この議論が洋行中であった大久保が帰らぬ間に、明治六年に発生。
瞬く間にその思想は深まり、朝鮮への出兵を求める士族らの運動も高まっていきます。
所謂”留守政府”を中心に広まっていったこの構想は、後の士族最大の反乱、
また日本から武士が消えた戦とも言える西南戦争の勃発へと結び付きます。

政府の主要メンバーであった西郷と大久保が別れざるを得なかった、
明治日本をも揺るがしたそんな二人を、大隈はこう述べています。

西郷との友情か。それは深かったろう。
           しかし、それと征韓論とを一つ物にしないところに、
                         大久保の大久保たる特色があるのだ。




---征韓論、そして西南戦争を終えた大久保の様子を、
大隈は次のように語っています。


吾が輩の知っている大久保は、いつも沈んだ考え深いような人であった。
 しかるに、これが苦労のためにそうであったと知ったのは、
 (明治)十年の戦争が済むと、二十年の苦労がようやく晴れたという面持ちになり、
 急に打って変わって言うこともハキハキしてきた。



『(伊藤(博文)とおれとを呼んで、)
 "今まで吾が輩はいろいろの関係に掣肘されて、思うようなことができなかった。
 君らもさぞ頑迷な因循な政治家だと思ったろうが、これからは大いにやる。
 俺は元来進歩主義なのじゃ。大いに君らと一緒にやろう。一つ積極的にやろうじゃないか。"

 と言った風な話で、盛んな元気であった。』


---これらの話の多くは大隈が晩年(明治後期~大正初期)にかけて語ったものですが、
維新三傑死後、明治十四年の政変を含め、日本初となる政党の設立、
長きに渡る大隈の政治人生において、大変深く刻まれているように思います。

大隈自身は大正11年(1922年)に89歳で没するまで、
数多くの政治的活動に身を呈し、現代日本において大きな遺産を残しました。
また同年(1922年)、日本軍閥の祖と称される山縣有朋も大隈と同じ歳にて没し、
二名は国葬、多くの国民がその死を悔やんだと言います。


(各人物における”大久保観”、第一回目は早稲田大学創設者、
 明治の元勲の一人である大隈重信が観た大久保利通をご紹介致しました。
 次回以降も大久保と交流のあった人物らを中心にご紹介していきたいと思います。)

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