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大久保利通・享年四十九歳。
1878年5月14日、東京紀尾井町・清水谷にて暗殺される。
彼を暗殺したのは石川県士族、島田ら及び島根県士族である浅井寿篤らである。

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彼が暗殺されたのは、早朝・8:30頃のことでした。
人通りの少ない清水谷での犯行は、
島田ら一行、暗殺実行犯にとって絶好のスポットでした。

実はこの日の数日前、島田らは"暗殺犯行通告"を大久保宅に送付していました。
事前に予告していたのです。
普段から護衛の一人も付けずに登庁していた大久保は、
この通告に意を介す様子もなく、普段通り登庁していました。
・・・残念ながら登庁中に、予告通り島田らの手により暗殺されてしまうのです。
この日は偶然なのか必然なのか、愛娘であった芳子(さん)が泣き喚き、
彼の傍をずっと離れようとしなかったと言う逸話も残っています。

---この「紀尾井坂の変」で亡くなったのは、大久保一人ではありません。
御者を務めた中村太郎氏、事件の朝も普段通り御者を務め、
最期まで大久保の護衛を務めました。
彼もまた、この紀尾井坂の変での犠牲者の一人なのです。


中村太郎氏。
彼は大坂生まれの孤児でした。
・・・親のない彼を大久保が自宅へ招き、
「中村太郎」という名を彼に与えました。

以来ずっと、御者として大久保に仕えていました。
そして本当の最期まで彼に仕えた、最期まで彼の傍に居ることの出来た、
唯一の人物と言っても過言ではありません。

・・・1878年5月14日死去。大久保利通と共に暗殺されました。
享年二十六歳でした。

公が葬られている青山霊園にて、彼も共に祀らわれています。
見上げてしまうほど大きな大久保の墓石。
その墓石から向かって左側に彼の墓石はあります。
とても質素で小さな墓石になりますが、
彼らと共に殺されてしまった馬も一緒に祀らわれています。
そこには、大久保を慕った方の心遣いが感じられます。

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現在、千代田区となっているこの清水谷は、
1890年に付近の土地が東京市に寄贈され、「清水谷公園」として開園。
区民及び行き交う人々に親しまれています。
そして大久保が亡くなった六年後である1884年に「大久保公哀悼碑」が建設され、
現在も現存する哀悼碑は今も尚、清水谷公園のシンボルとなっています。


清水谷公園・哀悼碑
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