(↑東京・紀尾井町にて初代内務卿大久保利通暗殺の図)
1878年5月14日早朝(AM8:30前後)、彼が遭難した地は東京・紀尾井町。
人通りの少ない通りでした。
政府初代内務卿・大久保利通は不平士族の凶刃に斃れました。
---そんな一つの時代の終わりを告げた時から、現代。
明治・大正・昭和・平成と時を経て、今日に至ります。
当時大久保邸が霞ヶ関に立地していた事から、
毎朝、この人通りの少ない紀尾井坂を利用していました。
東京に政府を構え、東京で遭難し、そして『東京の地に骨を埋める。』
大久保は以前から、度々その覚悟を同僚らに告げていました。
元より事実上の政府最高高官であるにも関わらず、護衛は一切付けず、
また日々邸に送り込まれる脅迫状に対しても一切動じませんでした。
自身の子供達に対しては以前ご紹介したように”遺書”と称し、
何時自分が斃れても構わぬよう父として、
また世界の中から日本を見据えた先駆者として
伝えたかった事を主に長男・利和 次男・伸熊宛に書き綴ります。
...彼が岩倉具視宛に送付した手紙の一説には、こう綴られています。
『
国家創業の折には、難事は常に起こるものである。
そこに自分一人でも国家を維持するほどの器がなければ、
辛さや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、出来はしない。』
この文面を読み取る限り、例え引切り無しに送られてこようと
脅迫状一枚に意を介す事など考えてはいられなかった、
という彼の深い信条と強い決意が伝わってくるように思います。
暗殺の主犯は、現・石川県金沢市出身の島田一郎氏でした。
彼は足軽として生まれ、維新後に士族となって以降は、
主に陸軍軍人を目指し仏式兵学を修め中尉まで昇りつめたものの、
故郷へ戻り、不平士族らの暴動である萩の乱、
そして士族最大として最後の反乱であり、
大久保の同郷・西郷隆盛が挙兵せざるを得なかった”西南戦争”に呼応。
彼もまた挙兵を試みますが、それに失敗します。
その後、自身らの活動方針を”政府要人の暗殺”へと切り替え、
その具体的な標的が政府初代内務卿・大久保利通なのでした。
...暗殺の四日前、彼の自宅には島田ら一行から『斬姦状』が送られます。
それを見た大久保は普段のように意には介さず、登庁するその日も、
護衛は誰一人、決して付ける事はしませんでした。
ある意味、彼のその覚悟は無謀なほどであったとも言えます。
自身が事実上の政府最高高官であったにも関わらず、
生涯大久保は自分の身は自分で守り続けた。
政治家として、言わば特異であったのかもしれません。
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この『斬姦状』の中には台湾出兵に対する不満、
そして何よりも士族らの英雄となってしまった西郷隆盛を殺してまで
何故、大久保が政府の頂点に在り続けるのか?
という疑問からの計画であると記されています。
・
公議を杜絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する。・
無用の装飾を主とし、国財を徒費する。・
慷慨忠節の士を疎斥し、以て内乱を醸成する。彼の元に届いた一通の暗殺予告状には、以上の事が明確に記されていました。
そして暗殺の日の朝、大久保は福島県県令に対して
有名な一節である言葉を語ります。
これが大久保が政治家として、そして大久保利通という人間として、
本当に最期の言葉でありました。
『
明治元年から十年の日本は、戦乱が多く創業の時代であった。
これからの十年は内治を整え、民産を興す。すなわち建設の時代で、
これは不肖私(大久保)の尽くすべき仕事である。
---更にその先の十年は優秀な後輩が後を継いで、
明治の日本を大きく発展させてくれるだろう。』
非常に有名な一節ではありますが、この一言に、
大久保の明治日本、そして今まで新たな日本の建国に尽くし、
幕末期以来永く苦楽を共にしてきた畏友に対しての思いが
切実なまでに込められているように、強く思います。
島田一郎もまた、この大久保と同様に最期まで武士でした。
自ら決断した事を最後まで為し、事の終わった後には自首をした。
不平士族と言えど、時代性独自の強い武士精神を抱いていたのだと思います。
しかしその島田でさえも、後の大久保の政策の意図、
そして彼が思い描いていた日本の姿を耳にし、暗殺実行を後悔したと言います。
...残念ながら士族たる立場上では、思うように彼のすべき事業、
する必要があった政策を冷静に見る事はほぼ不可能だったのではないでしょうか。
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そんな中で当時の日本人が迎えた『明治』という時代は、一種特殊でありました。
維新は、その当時の人々からは『御一新』と称されており、
言葉の名残が現在にまで残っていますが、その”明治維新”により、
日本は「対世界」という新たな視点と観点を得ました。
あるいは大久保は、この観点の先駆者であったのかもしれません。
先駆者であったが故に暗殺という事態にまで至ってしまったのかもしれませんが、
彼が遺した事業、そして政策はまさに彼の言葉通り、
伊藤博文・大隈重信らを中心に”優秀な後輩達”が後を継ぎ、
後の明治の日本を大きく発展させたのでした。
---多くの人が嘆き悲しんだ、彼の残酷すぎる最期ではありますが、
毎年命日である5月14日に最も近い日曜日(休日)に、
『甲東祭』と称され彼が眠る青山霊園にて追悼式が挙行されています。
2011年の大震災・福島第一原発での事故(人災)により、
去年この甲東祭に訪れた方は被災地の方や若い方、
そして彼が士族の為に手がけた福島県・安積地方からも人が集まったと言います。
仮に、もし大久保が暗殺の手を免れたとしても、
彼は自身の生涯を60年前後と考えており、
その時を迎えたのならば速やかに政界を離脱・引退し、
新たな視点・観点を得た、そして維新の名雄らが夢見た
”新しい日本人”(当時の、所謂”明治人”)に受け渡した事でしょう。
大久保の暗殺から実に134年を迎える2012年ですが、
彼の遺志、遺した教訓は今なお多くの日本人に語り継がれています。
そして今、現代日本が望む政治家の理想的な姿として、
度々『大久保利通』が取り上げられます。
今後彼のような政治家が生まれるのは、非常に難しい事かもしれません。
しかし例えそれが何年先であっても、何百年先であっても、
彼の遺志を引き継いだ、新たな政治家が日本には誕生する...
どんな困難でも乗り越えて来た日本には、確かな国民の力があります。
時代は明治から平成と、四つの時代を越えてきました。
そんな中で私達が目指すべきは常に”新しい日本の姿”なのだと思います。
大久保のみならず数々の先人が見る事を叶わなかった日本を、
私達は今こそ再建していくべきではないのでしょうか。
---長くなりましたが、改めてここに心から哀悼の意を表し、
安らかにご永眠されますようお祈り致します---
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