スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。
牧野伸顕

牧野伸顕
大久保利通の次男として生まれる。
外相・農商務相・文相・内大臣・宮内大臣・パリ講和会議全権を担い、
後のサンフランシスコ講和条約を締結した、
時の首相・吉田茂の義父に当たる。

---
----
-----

大久保は八男一女の子供たちを授けました。
長男:利和、次男:伸顕、三男:利武、四男:利夫
五男:雄熊、六男:駿熊、七男:七熊、八男:利賢、長女:芳子

彼が儲けた子供達は皆、とても優秀な方々でした。
毎日太政官に通いづめの父の背を眺めながら、
岩倉使節団では留学、帰国後は主に帝国大学にて学び続けました。

父である利通が岩倉使節団として子供達を随行させた事から、
やはり大久保の”見通しの良さ”が見て取れると思います。
次男である、伸顕氏は父・利通の教育熱心さを語り、
それが口癖であったと述べています。

これからは新しい学問をするに限る、時勢を先んじて学問をしなければならない。

この言葉の奥には、”文明開化”という新たな道を築いた第一人者として、
子供達に伝えていけばならないという思いと責任感が秘められています。
また伸顕氏との有名な逸話の一つとして、「伸顕氏の支那留学」があります。


---岩倉使節団にて留学を終えた伸顕氏、西洋の学問は教授したものの
自国である日本の学問・知識は著しく遅れていました。
そんな伸顕氏は父にこんな相談を持ちかけます。

『漢学等がさっぱり分からないが故、いっそ支那へ留学して見度い。』

伸顕氏の考えに考えた上での結論でした。
大久保は誰かから相談事を受けるとき、
頭ごなしに提案を否定する事や反対するようなことはせず、
ただ一つ、「もう一度良く考えてみなさい。」と静かに諭したと言います。

...今回の支那留学についても、公は「もう一度考えること」、を提案しました。
父からの提案より、伸顕氏はもう一度思案します。
この”提案”も、先を見通す力を養っていたように感じます。

『西洋から東洋と言った、偏った学問を行うのではなく、
 日本にて、肝要な勉学に励みつつ先輩から漢学を習いたい。』

それが、伸顕氏が辿りついた結論でした。
この考えに父・利通は深く賛同し、頷いたと言います。


---”先を見据えること
これは彼の政治論のみならず、子供達、
そして将来日本を担ってゆく者達への教育論にもなっていきます。
このように彼は政治・教育、全てにおいて物事を粗末にせず、
常に『沈思黙考』の姿勢で挑んでいました。

-----
----
---

しかし近代日本の教育者であったとも言える彼は、
あまりに早過ぎる死を迎えてしまいます。
以前の記事でご紹介したように、妻であり子供達の母である
満寿子夫人も、その約半年後に亡くなり、
養子に出された子供を除き、幼くして両親を亡くしてしまうのです。

---この九人の子供達の内、大久保の妾であった
おゆうの子が四人おり、それぞれ四男・六男・七男・八男である
利夫駿熊七熊利賢は、全ておゆうさんと公の間に生まれた子です。
彼女は京の芸子であり、維新前、薩摩と京を行き来していた
公の身の回りの手伝いなど、手厚く行っていました。

そして維新後、都城が東京へと移り変わった後も
公は自分のスケジュール帳で決められている日付に従って
おゆうさんと夫人との間を行き来していました。
人一倍子煩悩であった公は出勤前の数分を子供達とのふれあいに費やし、
暗殺の朝、その瞬間も長女である芳子とのふれあいの後に出勤しました。
不思議な事に暗殺の日の朝、芳子は泣いて公の元を離れようとしませんでした。
その為、大久保は出勤前に家の周りを娘を一周し、泣きやませたと言います。


そして残された子供達の面倒をみたのが、このおゆうさんでした。
普段から子供達の行き来もあった彼女の邸には、
大久保が推進・実行していた殖産興業の一環として、
広い庭一面に桑畑が植えられていたことで有名です。
この何気ない交流が、後々子供達にもそれ程苦痛を与えなかったのかもしれません。

子供達に今後生きていく為の教育を行ったのは父・利通でありましたが、
その多くを支えたのは妻の満寿子、そしておゆうでした。
彼らが育て抜いた子供達はその意思を受け継いだかのように育ち、
後の明治、そして大正・昭和に至るまでの日本を発展へ導きました。


最後に、公が近代国家へと導く政策の一つに、『駒場農学校』の設置があります。
この駒場農学校は後の東京大学農学部となった専門総合機関でした。
当時、この学校の管轄は内務省が行っており、時の内務卿が大久保であったのです。
国として初の試みであり、最新の農法等を伝授する、実用的な機関でした。
また大久保は学校運営の為、直接内務省に賞禄金5,423円96銭8厘を寄付。
(当時の金額に換算すると、到底想像し得ぬ額であります。)

本邦初の農学校の建築にあたり、
         農をもって国民の生活を豊かにする事業は、
                       まさに今日この日からはじまるのだ。


と、開校式にて大久保は述べました。

先述のように、彼は自らの政治論の方針を教育分野にも活かしていました。
後世まで引き継がれ、現在も多くの生徒が学んでいる姿を見ると、
政治、そして教育において、先を見据える事がいかに重要か見えてくるように思います。
(長くなりましたが、次回も教育等を交えていきたいと思います。)


徳川家康


・人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。
・不自由を常と思えば不足なし。心に望み起らば困窮したる時を思い出すべし。
・堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。
・勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に至る。
・己を責めて人を責むるな。
・『及ばざるは過ぎたるに勝りし


こちらは江戸幕府を開き、その初代将軍となった徳川家康の遺訓です。
非常に有名な遺訓となっており、皆さんもご存知の方が多いかと思います。

さて、当時の政権を握っていた徳川幕府を滅ぼし、
王政復古のクーデターを起こした大久保利通。
そんな"幕府の破壊者"とも言える彼は、
徳川家初代将軍であったこの徳川家康を「神君」と称し、
一種崇拝するほどに尊敬の念を抱いていました。


その大久保の尊敬の念は、彼の言葉、
そして政治にも忠実に反映されています。

変動期の政治というのはやり足りなくとも良い、
           やり過ぎることは全てを失うことだ。


と述べており、彼の繊細かつ断行の推し進めていった、
彼独自の政治に表現されていると思います。
また遺訓の一部である「怒りは敵と思え」。
”感情を出した方の負け”という考えの大久保も同様の考えを持っています。


ただ一つ家康と利通では、”権力に対する執着心”に相違点があると感じます。

どちらも幕府・政府においての最高責任者でありました。
大久保に関してはその政策の断行、そして同郷・西郷が死しても尚、
政府の頂点から降りぬ事から当時『権力の執着者』と呼ばれ続け、
現在でもそう知られていることが多いと思います。

しかし彼は、権力に対する執着は”希薄”でありました。
それは彼が岩倉使節団として渡欧している際、日記として記録されています。


帰国すれば引退したい。
”到底自分のような古人には新文明を担い、発展させていくことは不可能である。
 こういった事は固定的観念や概念の少ない新世代が進めていくべきだ。”

使節団として派遣され、欧米列強各国の進んだ国家制度、
政治形態を間近で体験した大久保の強い意思、つまり政治的信念からの言葉です。

この”引退”に関しては岩倉具視が懸命の説得を行い、
相当意思を固めていた大久保もこれには”仕方あるまい”と首を縦に振ります。
あくまでも彼の権力に対する意識は希薄であったのです。
しかしながら『内務卿』・『国の最高高官』これらの地位は国造りを進める上では、
最低限必要な役職でした。・・・大久保が持っていたと言えるであろう
固執は恐らくこの部分であり、「国造り」に対する執拗なまでの思い入れについては

一種の”執着心”

と言っても過言ではないかもしれません。

---
----
-----

大久保はその時代特有の、或いは現代社会にも通用するであろう
武士の『忠誠心』を持ち合わせていました。
彼の尽くすべき忠義の相手は、あくまでも藩主ではありません。
無論天皇でもなく、その相手は「民」でした。
言ってしまえば、大久保は、その為の手段を選ぶようなことはしなかったのです。
恐らくではありますが、これが彼が『冷徹の政治家』・・・などと
評される事へと結ばれていったのだと思います。

当時の日本の神は天皇でありました。
彼ら(明治人)の天皇敬愛、天皇に対する忠誠心は、
後の日露戦争において203高地を指揮した乃木希典からも見て取れます。
"神"という概念では偶像崇拝にしか成り得かねませんが、
目に見える形での神はあくまで、陛下より何より当時の民だったのでしょう。

大久保はそういった、目に見える形での神を信じ、
それに対して途轍もないほどの忠誠心を持っていました。
単純に好きか、嫌いか、ではそちらを強く好んでいたのです。


あくまでも現実主義者であり、それ以上に・・・と言えてしまう程の
彼のリアリストぶりは内務卿就任後間もなく発揮されています。

『水を打ったように静まり返る』・『紙を捲る音すら遠慮してしまう』

言わば”異様”とも言える管内は徹底した現実主義者であった
大久保独自のものであり、あくまでもそれのみを見つめ続けた、
彼の政治論が凝縮されているのかもしれません。

-----
----
---


--新年明けましておめでとうございます、
   2012年の幕開けとなりますが、今年が皆さま、
    そして日本にとってより良い年になるよう心より祈っております。
      本年も何卒宜しくお願い申し上げます--


(大久保利通の配偶者である大久保満寿子夫人についての記事になります。
 一般の方ではありますが、敬意を表します。)

青山霊園・桜

----------

「東京で暮らそう。」
夫・利通からのその報せを受け取った満寿子夫人は、
政府内務卿の妻、として彼の傍で支えることを決め、
彼に創った東京にて住まうことを決意します。

しかしその移動は"鹿児島から追い出されるような思い"で彼女は故郷薩摩を離れます。
それは大久保も同様ではあったと思いますが、
大久保よりも多く薩摩の地で過ごし、海外視察等で度々海を渡る
夫利通を故郷よりそっと見守っていた彼女にとって、
薩摩からの一種、脱却は非常に心苦しく辛いものであったと思います。
...東京に移り住み始めたのが1876年。
夫・利通が暗殺される約二年前の出来事でした。

同じ邸に住まうという事は、妻として、彼の家族として
耳を塞ぎたくなるような言葉も沢山耳にしたと思います。
やっと夫の近くに居ることにより心の安らぎを得られるはずであった夫人は
またも気苦労の絶えない生活へと戻ってしまうのです。

只でさえ政府最高高官であり政府の権限が集中する内務省の最高幹部。
元より死の覚悟はありますが、それでも度々邸に寄せられる脅迫状、
護衛も付けずに庁へ向かう夫を、彼女はどんな思いで見つめていたのでしょうか。

...東京へ移る以前から大西郷、すなわち西郷隆盛の妻であった
西郷いと子夫人とも二度と会えぬ別れとなってしまいます。
二人の夫同士の決別が彼女達の運命をも巻き込んでしまうことになります。
ですが、彼女達も恐らく薩摩の両雄同様、
彼女達にしか分かり得ない特別な思いがあったのだと感じます。

---大久保利通妻・満寿子夫人は、大久保利通暗殺後半年に亡くなりました。
逝去当時、満寿子夫人42歳。大久保とは七歳差でありました。
---西郷隆盛妻・いと子夫人は、息子に先立たれた後の、
(大正十一年)1922年に亡くなりました。

お二人の墓石も、同じく青山霊園にて祀らわれています。
西郷隆盛に関しては彼の雅号である"南州"でも知られる、
南州神社にて薩軍の兵達と共に眠っています。

両雄と、その両雄を支えた妻たちも彼らの後を追うように亡くなりますが
影で支えたお二人がいなければ、明治維新も、
そして現代の日本の世も、また変わっていたのではないでしょうか。
彼等を支えたお二人が空の上でゆっくりと心を休めているよう祈っております。

----------

※この場を借りて、深くご冥福をお祈り致します。
今後追記をして参りますが、南州神社及び青山霊園等の
墓地をお参りの際は墓地には多数の墓石が並びますので、
諸事情ご高察の上、お参り願いたくお願い申し上げます。

スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。